伝道板

正光寺の毎月の伝道板を今までこちらでもご紹介してきましたが、今後は下記「隠寮ホームページ」に一元化します。

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伝道板

『 言ふまいと 思へど 今日の 暑さかな 』

平30.8.伝道板

八月の伝道板です。

炎暑の毎日ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

中国宋代の禅問答公案集に「碧巌録」がありますが、その四十三則に「洞山無寒暑」が出てきます。

ある時、洞山良价禅師に一人の僧が質問をします。

「寒さや暑さをどう回避したら良いでしょう」

洞山禅師は「寒暑がいやなら寒暑の無い所に行け」と答えます。

それを聞いた僧は「一体どこにありますか」とさらに問います。

すると禅師は一喝して「寒時は闍梨を寒殺し、熱時は闍梨を熱殺す」

すなわち、厳寒時には自己を殺し、酷暑には自己を殺し尽くせと示しました。

さて、自分を殺すとは一体どういうことでしょうか。

私たちは寒にしろ暑にしろ、生老病死にしろ現状から逃れようとすれば苦が生まれます。寒には暖を、暑には涼をという具合に二念が湧き比較迷苦してしまいます。初一念に徹すること、現況に浸りきること、いや、やはり死に切るとしか言いようのない寒と一枚、暑と一枚になる、それ以外にはないのです。

ところで、これは禅問答の問題の一つですから「無寒暑」の心境を示して答えなくてはなりません。

さあ、どう答えるか。

上の説明のようなことを語り始めれば老師様から「それは理屈ぢゃ!!そんなものは屁の足しにもなりゃせんわい!!」と怒鳴られてしまいます。

ここで良寛さんのお話をしましょう。

良寛さんは文政十一年の越後地方を襲った大地震の折、被災した親友の山田杜皐にあてた手紙の中で

『 災難に逢う時節には災難に逢ふがよく候 死ぬる時節には死ぬがよく候 是はこれ災難をのがるる妙法にて候 かしこ 』

と見舞いの心中を綴られたそうです。

「よく候」は善悪ではなく、「それ以外にはない」ということです。

これほど慈悲に充ち満ちた見舞いはないのではないでしょうか。

「おんな城主:直虎」=憲法9条?!

昨年のNHK大河ドラマ「おんな城主:直虎」がなぞっているのは、実は憲法9条の構造であるとの説が新聞に掲載されていたので、ご紹介しようと思います。

これは仏教の平和思想が底流する憲法9条が変質されないことを、仏教者の立場として切に願うからです。

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例えば、戦況優位の徳川家康から和睦の申し入れを受けた今川氏真が、意想外の提案に当惑しながらも、「私は何も好きこのんで戦をしているわけではございません」と吐露した家康の対応に意を強くして語り出した言葉。

「大名は蹴鞠で雌雄を決すれば良いと思うのじゃ」

「よいと思わぬか。もめ事があれば、戦の代わりに蹴鞠で勝負を決するのじゃ。さすれば、人も死なぬ。馬も死なぬ。兵糧もいらぬ。」

荒唐無稽な奇想だが、蹴鞠を譬喩ととれば、戦の代わりに蹴鞠で勝負を決するというのは、戦争の代わりに他の手段で決するということになる。

氏真の奇想は、「戦争は他の手段を以てする政治の継続である」(クラウゼビッツ「戦争論」)という理解を乗り越える9条1項の規範、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」の本質を射抜く。

もう一つ。

直虎から「我は種子島を備えて井伊を守ろうと思うておった。だがこの先どうなるかも分からぬ。そなたが我なら・・・何を備える?」と問われた、直虎と心を通わす家老で今川家目付役でもある小野政次の言葉は「私なら戦わぬ途を探ります」「戦いに及ばずとも済むよう死力を尽くす。周りの思惑や動きにいやらしく目を配り、卑怯者、臆病者よとの誹りを受けようとも断固として戦いません」

戦わずに争いを解決するという政次の言葉は、同時に、卑怯者と呼ばれる覚悟、政略・外交の技量の必要を強調することによって、戦争放棄を日々の政治過程における具体的実践へと肉付けしている。

国際平和を「誠実に希求」(9条1項)するとは、こうした実践の積み重ねとしてのみある。

このドラマが描く直虎の歩みは、決して一国平和主義ではない。武田と徳川が今川攻めを画策するなかで、直虎は戦そのものを未然に回避しようと徳川に積極的に働きかけている(真の積極的平和主義)。この企ては失敗するが、徳川方につくこととなった直虎は、徳川の使者に対し、城は明け渡すが兵は出さないと伝える。それでは新たな土地の安堵はできぬと言う使者に、直虎は「井伊の目指すところは民百姓一人たりとも殺さぬことじゃ」と宣明する。誠実に希求すべき「国際平和」(9条1項)は、つきつめれば敵味方をこえて「民百姓一人たりとも殺さぬこと」以外にはない。

領主としての井伊家が一旦潰れた後も、直虎は例えば井伊谷に侵攻する武田軍と戦おうとする新たな領主に翻意を迫るために策を講じる。当時農民は戦時には武力として駆り出されていたが、直虎は、領内の全農民に「逃散」を促すことで、主戦論の新領主を断念させた。兵力が存在しなければ戦はしたくてもできない。この逸話は「前項の目的(戦争放棄)を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とする9条2項のまったき具体化である。

「民百姓一人たりとも殺さぬこと」が、このドラマの通奏低音である。

今川から直虎の跡継ぎの虎松の首を求められた政次は、にせ首として差し出すために無辜の幼児を殺害する。家を守るためには不可避とはいえ、これは「民百姓一人たりとも殺さぬこと」という9条の根本規範に反する。このドラマの脚本家は、この侵犯を重く捉えている。政次に「地獄へは俺が行く」とつぶやかせ、そうして、地獄に落としている。いつの世も、とりわけ戦では、最も弱い個人が犠牲となる。どんなに策をめぐらそうとも、戦がある限りこの犠牲はなくならない。だから戦そのものを放棄し、兵力を持たないのが9条1項・2項である。

直虎の時代の農民は、戦の最大の被害者であるとともに、兵力として加害者にもなる者であった。誤解を恐れずに言えば、これからの日本で、この農民に当たる存在は、自衛官かもしれない。憲法に自衛隊を明記することが「民百姓一人たりとも殺さぬこと」を根本に据える9条の構造を崩さないはずがあるまい。

『 落椿 嘆息ひとつ 空あおぐ 』

平30。2月

『 落椿 嘆息ひとつ 空あおぐ 』

梅も椿も寒苦を経て、春の先駆けとして私たちをなぐさめてくれる。

特に椿は常緑の葉を貯えた中にひとつふたつと玉のつぼみをつけたかと思うと、いつのまにか色鮮やかに、謙虚ながらも力強く咲く。

その花は瑞々しさを保ったままポトリと潔く落ちる。

何とも言えない寂しさと無常観を教えてくれるものだ。

さて、椿の気持ちになってみれば、意外にも役割を終えてやれやれとホッと一息ついているのかもしれない。

 

千利休の孫、千宗旦(1578~1658)にこんな話がある。

京都千本の正安寺の和尚が庭に咲いた「妙連寺」という名の椿の一枝を小僧に持たせて、宗旦のもとへ届けさせた。

ところが小僧は途中で躓いて転び、椿の花を落としてしまった。

椿の枝と落とした花を差出し、詫びる小僧に宗旦は「よいよい」と微笑んでそのまま小僧を帰した。

翌日、和尚のもとへ宗旦から「お茶を一服差し上げますからお越し下さい」と案内があったので早速出向くと、茶席「今日庵」の床柱に掛かる祖父利休作の花入れ「園城寺」には花の無い椿の枝が投げ入れられ、その下に小僧が過って落とした椿の花がさりげなく置かれていた。

そこには落ち椿が生き生きと輝き、自然のままの静寂さと風情を漂わせていたという。落ちた花一輪のみならず、すべてをみごとに生かしきった宗旦の心こそ禅の心そのものと言えよう。

 

『 ZEN to you & you 』

7月の伝道板

平成30年7月の伝道板です。

『 ZEN to you & you 』

淡い色使いだったので、スキャンした時に消えちゃってますね(;^_^A

今回はこちらです。

本誌に横文字が登場するのは初めてのことですが、実は安永祖堂新管長様(奥山方広寺の新管長様)がお持ちのクリアファイルにこの横文字が書かれており、雑談の中で老師は「これ何と読むか分かりますか?」と訊ねられました。

語学に乏しい私なりの読みを終える前に、

「前途洋々だそうですよ。」と、してやったりと言わんばかりに嬉しそうに回答されました。

これは母校、京都花園大学の最近のスローガンなのだそうですが、禅宗門の大学らしい素晴らしいキャッチコピーと私は感銘を受けました。

なぜか?

私たちは先入観を取りあえず働かせます。

英文が書かれていれば、つい英語読みしようとします。

そここそを見事に奪い去る禅的な智慧と慈悲がそこにはあったからです。

子供の頃に父から教わったこんな話を思い出しました。

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大西洋を航海していたある外国船が遭難し、数日間漂流していた。

食料はともかく飲料水が不足していたところに偶然別の船と遭遇した。

真水を分けてもらおうと信号を送ると、「その場でバケツを下ろしなさい」と返信が来た。

試しにバケツを下ろして水を汲むと、そこは海水ではなく真水であった。

船はいつの間にかアマゾン川の河口を漂流していたのだった。

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実はこの話、ブッカ・T・ワシントンという黒人解放運動の指導者の演説中の譬喩らしいのですが、

父は先入観に支配されるな、自由で柔軟なとらえ方も心掛けなさいという意味で語ってくれたのでした。

ところで、この英文の意味はと言えば、

「禅は太郎にも花子にも、誰にでも開かれている・・・」とでも訳しておきましょうか。

ちなみに上の画のトートバッグは「ZEN to you & you」を非常に気に入った私への、管長様からのプレゼントなのです。

ゾ~ウさん、ゾ~ウさん、お鼻が長いのね。

平30.4.今月のことば

『 ゾウさんや~ぃ 長い鼻だなぁ。そうさ 母さんだって長いんだゾウ!』

4月8日は花祭り、お釈迦さまのお誕生日です。今年も白いゾウさんにお釈迦さまを乗せて皆でパレードしましょう。

そこで、誰もが知っている童謡「ぞうさん」ですが、作詞された、まどみちおさん(1909~2014)の気持ちを少しデフォルメすると、きっと上のような感じになるのでしょう。

キツネかタヌキかウサギかなにかが長い鼻のゾウさんに向かって「や~い、鼻が長いな~」とからかっても、ゾウさんは大好きなお母さんと同じ長い鼻がお気に入りなのです。

同様に、金子みすずさん(1903~1929)の童謡詩「私と小鳥と鈴と」も思い出します。

私が両手をひろげても、お空はちっとも飛べないが、飛べる小鳥は私のやうに、

地面を速くは走れない。私がからだをゆすっても、きれいな音は出ないけど、

あの鳴る鈴は私のやうに、たくさんな唄は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい。

それから・・・、近藤宮子さん(1907~1999)が昭和6年の満州事変のころに書かれた名曲

「チューリップ」でも、みんなそれぞれ素晴らしいと讃嘆しています。

咲いた 咲いた チューリップの花が

並んだ 並んだ 赤白黄色 どの花みても きれいだな

お釈迦さまはおっしゃいました。

「この世で尊くないものなんてないんだよ」と。

その心は今でもこうして生き続けているのです。