布薩(ふさつ)

円覚寺にて、横田南嶺老大師と円覚僧堂の雲水さん(修行僧)達と一緒に〝布薩〟を実践して参りました。

実践した後は、横田南嶺老大師を囲んで僧侶10数名の勉強会。

布薩(ふさつ)。

初めてこの字をご覧になった方はなんだろうと思われますよね。

菩薩(ぼさつ)の従兄弟かしらと思うかもしれません。

 

ひと言でいうと、〝反省会〟のようなモノです。

仏教における規範のことを〝戒律〟といいます。これは馴染みのある言葉かもしれません。

戒律は厳密にいうと、戒と律の2つに分かれます。

律とは修行している僧侶達の集団(サンガ僧伽)における規則。その集団における社会がきちんと動くようなルールですから、これは破ることは許されません。

戒とはシーマという言葉から戒(いましめ)と訳されましたが、これは〝良き習慣〟というようなものです。

 

少し話が逸れましたが、この勉強会に参加する前の私は、律の研究の第一人者である佐々木閑先生の教えから次のような認識でした。

〝布薩〟とはサンガの中における修行僧達が月に2回、新月の夜と満月の夜に集まり円座になって、一人ずつ戒を破っていないかどうかの告白をして、もし破った者がいた場合は他の修行僧達から許しを貰い、そして再び修行に励むもの。

 

3年前に方広寺にて2日間を2回、合計4日間の間に末寺の総代さん約200人の授戒会を行いました。

この授戒会は大変意義深いもので、参加された総代さん方からも本当にたくさんの感謝の言葉をいただきました。

 

しかし、授戒会はやはり、戒を授かった後、いかにそれを日々の生活に生かしていくかが最も大切なわけです。

「戒を授かりました。はい、おしまい」ではないわけです。

 

お釈迦様の時代の、この〝布薩(ふさつ)〟のように、その都度その都度、ことある毎に自分自身の修行を見つめ直す機会は本当に大切だと思います。(僧侶にとっても一般の方にとっても)

 

しかし、大勢になればなるほど、この布薩を一般の方向けに行うのは難しいなぁと感じていました。

なぜなら、全員が顔見知りではない状態で(例え顔見知りであったとしても)大勢の方の前で自分の〝破戒を告白〟するということは勇気の入ることでもありますし、その参加者の中で不協和音が生まれる可能性も否めません。

ですので、この布薩は私の頭の片隅にありながらも、一旦棚上げされた状態でありました。

 

すると、円覚寺さんでは布薩を実践されているらしいぞという情報が入ってまいりまして、円覚寺の横田南嶺老大師ご指導の下、実体験させていただきに行ってまいりました。

 

老師のお話によりますと、京都の建仁寺さんでは年1回〝儀式〟としての布薩は残っているそうです。

その儀式としての布薩をもっと反省・自覚をするようなものにしたいとお考えになられ、臨済寺さんの布薩も参考にされながら、【再・授戒】という形の布薩を作られたとのことでした。

実際に体験しましたが、これは非常によくできた【行(ぎょう)】でした。

お釈迦様の時代の布薩とはやり方が全然違いますが、その頃の布薩の意義・本質はそのまま踏襲されているという素晴らしい行の形を取られています。

これなら、〝破戒を告白〟するわけではありませんので、参加者の中で不協和音が生まれる心配もありません。

しかしそれでいながら、しっかりと自分自身の修行を見つめ直すという本質の部分は、参加者全員にしっかりと意識付けされるという、本当によくできたものでした。

 

そして

戒は〝いましめ〟というより〝良き習慣〟なんだ。

習慣といっても、〝戒を守るように習慣づける〟と考えてしまうと苦痛になってしまう。

〝戒を破ったことに気がついて戻ることを習慣づける〟んだ。

人間は戒を破ってしまうもの。背いたことに気がつくことが重要!!と仰っていたことが心に残っています。

 

例えば、不飲酒戒(お酒をみだりに飲んではいけない)なんてその最たるものですね。

〝般若湯〟なんて名前を付けてますが、〝破戒〟なんだということに無意識・無頓着になっています。

しかし、日本の社会習慣・人間関係の付き合いとして飲まざるを得ない時も勿論あるでしょう。

それも分かります。

ですから、戒を破ってしまったことを自覚する〝布薩(ふさつ)〟という〝行(ぎょう)〟はまさに必要とされるべき、実践すべきものだと自覚しました。

 

・・・坐禅会の別枠として正光寺で行うかどうか検討中です。

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