さまざまなご縁から、鎌倉円覚寺の横田南嶺老師と老師を慕う有志の和尚さん達と共に宇和島「坂村真民の足跡」を辿る研修に参加した時の写真です。
坂村真民先生の詩は、横田南嶺老師の御法話の中でもたびたび登場します。
『念ずれば花ひらく』『二度とない人生だから』『鳥は飛ばねばならぬ』等々、数え上げるとキリが無いほどです。
真民先生の詩を非常に愛されている南嶺老師に、真民先生の足跡(タンポポ堂・重信川・大乗僧堂等々)を御案内していただく研修は、真民先生の心に想いを馳せる旅でもありました。
この時の研修のお話はまた別の機会に譲りまして、最近、感銘を受けた詩をご紹介します。
「手を合わせる」 坂村真民
めぐりあいのふしぎに
てをあわせよう
そうだ
手を合わせたら
自分が変わる
相手が変わる
家族が変わる
憎む者さえ変わってくる
わたしは毎日
五臓六腑さま 今日も
よろしくお頼みしますと
手を合わせる
病気しないのも
そのためだろう
世界中の人がみんな
手を合わせあったら
争いもなくなってゆくだろう
・・・本当にこの通りだと思います。
30年前のCMを最近ふと思い出しました。
小学校にあがるかどうかの頃によく流れていた記憶がありますが、御存知の方もいらっしゃいますでしょうか。
お味噌汁のCMだった気がします。
「おててのしわとしわをあわせて、しあわせ。な~む~。」
良いキャッチフレーズだなぁ~と今更ながら、感心します(・o・)
合掌した状態で喧嘩って出来ないんですよね。
殴り合いはもちろん。暴言も吐けないと思います。
手と手をあわせる。合掌。
生まれて間もない頃のこどもが朝日に向かって、手を合わせているのを見た時は衝撃を受けました。
大きくなって教わったわけではない、無意識の合掌。
人間は本能で、手を合わせるんですね。
理屈でなく、理性でなく、手を合わせるんですよ。ビックリしました。
仏教。なかでも臨済宗は別名「仏心宗」と呼ばれたりもします。
本来、わたしたちはほとけさまと同じこころを持っている。
それが、知恵がつき我がうまれ、自分にとって好ましい形「或(わく・区切る)」を作る。
「或」に「心」をつけると「惑」。心を区切るから、惑うんです。
成長するにつれ、「或(わく)」をあてはめて物事を考えるようになります、頑固になる。だから迷ってしまう。
孔子が40歳を『不惑(ふわく)』と言ったのは、この年になれば惑わない(迷わない)といったわけではありません。
どんどん頑固になるから、『惑うな!!』『或を作るな!!』という戒めの言葉です。
本来の心(こころ)に立ち返る。
そのために禅宗(臨済宗)では、時に「坐り(座り)」、時に「いのり(祈り)」ます。
赤ん坊の合掌に心が震えたのも、自分にとっての戒めだったのかもしれません。
教えているようで、教わっているような、そんな今日この頃です。