1月1日元旦朝4時からの法要後に安永管長猊下が御垂訓された言葉を掲載します。
私は次の法要の準備に向かっておりましたので、直接お言葉を拝聴したわけではありませんが、人づてにその時のお話を伺うと身が引き締まる思いがしました。
30年程前、私が天龍寺で修行していた頃、毎月1回嵯峨鉢という托鉢を雲水(修行僧)全員で行います。
いつの頃からか、若い雲水達の一番最後に朗らかな尼僧さんが一人、托鉢について回られるようになりました。
瀬戸内寂聴さんでした。
当時、嵯峨野に「寂庵」という庵をたてられた頃で、その瀬戸内さんが雲水と一緒に托鉢をされておりました。
若い雲水は影で「いつまで続くものやら」と陰口を叩いておりましたけれども、長いこと雲水と一緒に托鉢をされておられたことを覚えております。
先月、その寂聴さんが雑誌のインタビューで「最後に寂聴先生が死をお迎えになるとするならば、どのようにお迎えされたいですか」とインタビュアーが訊ねました。
すると、「私は机に向かって、原稿用紙を広げて万年筆を持ったまま小説を書いている途中で息を引き取りたいものです」とこう仰いました。
新年早々、なんということをいうか、と思われるかもしれませんが、『正月や冥土の旅の一里塚。めでたくもあり めでたくもなし。』そういう古歌もあります。
そのように最後まで己を見つめ、精進を重ねつつ、志半ばで最後を迎えるということは、それこそが人間の生き様として一つの在り方ではないかとそんなことを年頭の頭として痛感しておる次第です。
今年は『亥(い)』の年であります。
お互いに仏道またそれぞれの道においてまっしぐらに精進を重ねていきたいものです。
どうぞ皆様ご健康にご留意されまして、ひときわの精進を重ねられますように心よりお祈り申し上げます。