『心頭滅却すれば 火も自ずから涼し』

ふれあい法話

平成29年2月4日の「ふれあい法話」面白かったです!!

東京大学大学院を受験する時のお話から、山梨県恵林寺の快川国師が炎に包まれて落命する最後の瞬間に唱えた

〝安禅不必須山水(安禅は必ずしも山水をもちいず)〟

〝滅却心頭火自涼(心頭を滅却すれば 火も自ずから涼し)〟

のお話。

吉田松陰とお弟子さん達のお話。

「修行とは」についてのお話。

修行は、自分自身の向上もあるが、大切なことはそんなことではない。修行すると何が違うかというと、自分自身が良くなっただけで終わっていては「で、それでどうしたの?」って言われたら終わりでしょ?良くなったものが生きていかないといけない。それを生かすのは本人じゃ無理なんですよ。共感して受け止める方がいないと無理。どんな人でも。勿論、本人が努力しないとダメですよ。でも、本人が努力しても努力してもどんなに努力しても受け止める人がいないといけない。ていうことは、まずは指導者として素晴らしい人がいたら、その人のために自分が頑張るんですよ。まず頑張る。自分が凄くなることも必要だけど、自分は凄くなくてもいい。中途半端なままでもいい。だけど、できることをする。当たり前のことでもいいんです。イチローじゃなくてもいい。例えば、ラグビーの話をすると、選手としては2流でも自分の仲間が良いプレーができるように、毎日毎日ラグビーボールを磨いてたりするわけですよ。それ、凄いことでしょ。そこから始まるんですよ。自分がもしプレーができれば、一生懸命プレーをすればいい。でも、プレーができようとできまいと、ラグビーボールを磨くような気持ちが無かったら、何もできないとおもいます。ラグビーボールを磨いているやつだけが、プレーしてイチローになれるんですよ。だから、修行して何が大事かっていうことが見えないと、長年修行していてもあんまりわからないんですよ。自分の人生を振り返ってみて思うことがあるんですよ。私がなんで苦しんでいたのかというと、「自分」をね、抱え込んでいたんですよ。「素晴らしい一句とは」「自分にしか吐けない一句を吐く」とかね。だけど、今思うことは、「その人にしか吐けない一句を吐く」人がいたとしても、それはその人のパッチワークで。そんなことは大したことじゃ無いんです。そうじゃなくて、私が一生懸命身を削る思いで哲学をやって、人に伝えなきゃならない大事な教えを一生懸命書を読んで、言葉と戦って格闘した哲学者っていっぱいいるんですよ。例えば、西田幾多郎とか鈴木大拙とか。白隠さんもそうでしょ。身を削るような努力をして言った人ですよ。白隠さんのことを皆さん「凄い」「エネルギーが余っていて境涯が凄いから、枠から画がはみ出るんだ」なんて言いますが、そんなわけは無いと思いますよ。当時の80歳といったら、それはもう相当なおじいさんですよ。しかも、白隠さんは若い頃から凄い修行をされていた方ですから、体だってボロボロです。そんな白隠さんがあんなことをしてまでも晩年までずっと書き続ける。「それは何故か」って、それは白隠さん自身が凄いんじゃなくて、「伝えたいモノがある」からですよ。そして、弟子達がそれを一生懸命一生懸命したから、白隠さんの名前が残ったわけでしょ。そしたら、白隠さんの弟子が偉いんですよ、やっぱり。弟子が凄いから白隠さんの名前は残ったんです。大事なことは、自分にしか言えない一句を吐けたら一番良いですよ、でも吐けなくても良いんですよ。自分にしか言えない一句を吐いて一生懸命頑張っている人がいたら、自分がその人のことを受け止めて一生懸命生きることなんですよ。自分がやれることをやればいい。地味でも良いからやることをきちっきちっとやるという覚悟があれば良いんです。(一部、抜粋しました)

等々、感銘を受けるお話が多々ありました。

今まで、周賢老師が一般の方向けに法話をされているのを聞いたことがありませんでしたので、初めて聞いて面白かったです。

余談になりますが、法話後の懇親会では、「山梨の町おこし」について真剣に語っていらっしゃいました。

山梨には周賢老師という凄い人がいますので、是非みなさん山梨に行ってみてください(^_^)

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