ほそばの大木のてっぺんに、キジバトを見つけたので、鳥関係の禅語を思い出しました。
碧巌録の十六則に「鏡清啐啄機」というものがあります。
『啐啄』(そったく)。
啐は卵の中の雛鳥が孵化するのを知って、内から殻をこつこつと突くこと。
啄は親鳥が同時に殻の外からこつこつと突くこと。
内と外と同時に突くことによって、殻が割れて雛鳥が生まれ出る、これを啐啄の機(はたらき)といいます。
禅においては師弟の意気投合した相互のはたらきを指しますが、あらゆる人間関係の場における理想とも言えます。
「内と外を同時に突く」文章にするとこれだけですが、決して簡単なことではありません。
息が合わなければ殻は破れませんし、もし仮に親鳥がものすごい力で無理矢理こじあけたとしても雛は未熟な状態で孵化することになります。親鳥はヒヨコの応ずるのを意識して突くのでも無し、ヒヨコも親鳥の啄するのを知って啐するのでもありません。親も知らず、子も知らず、無心で内外の呼吸がピタリとあった時に奇跡が起きます。
どこで知った話か忘れましたが、目の不自由な子供が小学校の宿題で「母の似顔絵」を描くことになりました。
その子が描いた「母の似顔絵」は画用紙いっぱいに『手』が描かれていたそうです。それも何百本・何千本もの『手』だったそうです。
目の不自由なその子にとって、母親はどんな時でも助けてくれる存在でした。
ご飯を食べるとき、着替えをするとき、勉強するとき、お風呂に入るとき、お出掛けするとき、日常のありとあらゆる場面で母が手を差し伸べて助けてくれた。その子にとって母はまるで何千本もの手を持っているように感じていたのかもしれません。
この絵を見た先生は、千手観音菩薩の意味がよくわかったそうです。
この子に限らず、子供にとって母親は観音菩薩なのでしょう。生まれたばかりの赤ん坊が言葉にならない声を発しても母親は即座にそれを理解します。まさに『観音』なんですね。「音を観る」。「音を見る」ことなんて通常出来ませんが、それを見てしまうくらいそのものに成りきる。声無き声を聴けるくらい赤ん坊と一つになる。
自ら玩具を掴んだ瞬間です。たまたま玩具を目の前に持っていったそうです。
啐啄同時の瞬間を目の当たりにした気がしました。