先日、佐浜のお寺さん所蔵の「涅槃図」をご紹介しましたが、今回は同じく佐浜さん所蔵の「達磨図」です。
ご住職は達磨さんの右下に押されている落款が一風変わった名称であり、その真偽を知りたいと専門家の判断を仰がれました。
落款をクローズアップしますと。
ご覧いただけますでしょうか。
『村先野鶉一救書』と記載されていますね。
これを平仮名に直すと『むらさきのじゅんいっきゅうしょ』になります。
再び漢字に直す際に、別の漢字を当てはめるとどうでしょう?
『紫野純一休書』。
どうです?
勘の良い方はぞくぞくっとしませんか?
『紫野』は、今の京都の地名の一つで臨済宗大本山大徳寺があるところです。しかも!昔は紫野ではなく村先野と表記されていたそうなんです!!
そして、「とんち話」で庶民に親しまれている『一休さん』のフルネームは『一休宗純』。
大徳寺で住職をされていたこともございます。
えぇ!?まさかまさか・・・。
白隠さんの達磨図はいろんなところにありますが、一休さんの達磨図って、あまり聞きません。
佐浜さんが専門家の意見を仰ぐ時に、私もその場に立ち会ってドキドキしながらその結果を待ちました。
結果は。
一休さんのモノではありませんでした。
しかし、全くのニセモノだったわけでも無かったんです!!
なんとなんと、白隠さんの本物の達磨図であるとのお墨付きがでました。
『村先野鶉一救書』は、白隠さんが使っていた落款だったそうです。
意味は、やはり!と言ってはなんですが。
「紫野純一休」をもじったもの。(!!)鶉は住所が定まらぬので、住所不定のことを「鶉居」というように、行雲流水の修行僧にイメージが重なる。しかし、飛翔せずに地面を走りまわる鶉は、人間にとっての獲物でもあった。
白隠の時代では、再開された鷹狩りのために、専門の役人の管理下で飼育されていた。将軍が「鶉御成」をするときには、目黒や駒場野あたりの鷹場の野に、獲物としてあらかじめ仕込まれたのである。したがって、この印文は「獲物として〈村先野〉に仕込まれた〈鶉一羽〉を〈救〉う」、といった意味であろう。また、この印は「放生繪」および「不擇鱗翁」と併用されることが多く、みな放生にかかわる意味をもっている。江戸初期、偏愛していた鶉をすべて放った老中阿部忠秋の佳話もあるが、それとは特にかかわらないであろう。
あまりにもボロボロだったこともあり、どうしようかと迷っていたそうですが、白隠さんの本物だとわかったことで修繕し直すことにしたそうです。診断された専門家の先生も白隠さんの達磨図の中でも珍しいモノです。と驚いていらっしゃいました。まさに『掘り出し物』を目の当たりにした面白い体験でした(*^_^*)